穴倉

王様の耳はロバの耳、

続・記憶と記録

前回書き忘れたけれど、日記が続かなくなったことの理由の一つにSNSを始めたことがある。感じたことを感じたときに、他者に向けておおむね発せるようになったことで、私を日記へ向かわせる衝動の一つは消えてしまった。しかしもう一つ私にとって重要な問題が残っている。すなわち「記録する」ということだ。

SNSのつぶやきは140字という制限の中で、人とのコミュニケーションも考慮に入れながら発していくものだ。1日のつぶやきの数はまばらで、長さもまちまちだ。そしてすべて、アカウントを消してしまえば残らない。私にはSNSを記録として信用することができない。

 

思えばきっかけは、家計簿をつけ始めたことだった。毎日、その日使った金額と使途を書き入れる。1日の作業は5分程度だが、毎日続けることで徐々にページが埋まっていく。その過程に安息を感じることに気がついた。小学生のころに感じていた記録の喜びが、戻ってきたのだった。

同じく、最近始めたのは聴いた落語をつける小さな手帳だ。噺家と演目、そして自分の感想を簡潔にメモする。昨年から聴きはじめた落語だが、たくさん聴くにつれ、誰が何を演ったのか覚えていないと楽しみが半減してしまうと思い、書き始めた。色味はないが、余分な箇所もない記録、それがたまっていくこと、この先忘れてしまっても、その日その時はあったのだと確かに感じられること。

 

私はしばらく日記をやめることにした。前回の記事で振り返って思ったことだが、長く書きすぎて関係がこじれてしまったのかもしれない。そのかわり、前述のような単純な記録をいくつか、無理のない範囲でつけていくことにした。一つの機能しかもたない記録が、長い時間ののちに自身にどう作用するかにも興味がある。

 

そしてもう一つ、忘却を過度に恐れるのでなく、その力を逆手に取る努力をすることにした。つまり、記憶の選別ととらえるようにするのだ。忘れっぽい私が、長い時間を経ても覚えていること。意識の上で覚えていようとしたことすら忘れてしまう私の頭が、無意識で捨てなかったもの。そこには何か、私にとって重要なものがあるのではないか。

このブログをなかなか書けなかったのは、今日、あるいは直近に感じたことや考えたことを書こうとしていたのが一因ではないかと思う。そうではなく、過去の話を。忘却の厳しい選別に耐えた、私に何かを告げているかもしれない(そして他人には何の益もないかもしれない)記憶について、書いたらいいのではないか。

記録ではないから、改変があるかもしれない。誇張があるだろう。美化もあるはずだ。でも、これは私の記憶の話だ。かまわない。遺したい。

 

これが私のパラダイムシフト。記憶と記録、それぞれとの付き合い方を見直した。こうしたわけで、これからときどき過去についてのことを書こうと思う。書くからには、何か意義を持たせたい。人に読んでもらうのに耐えるように、自分なりに工夫しながら書いていきたい。

まずは、一つの記事を短くするところからかな…