穴倉

王様の耳はロバの耳、

「最近ついた嘘」雑感

私が初めて作った本を読んだ母が「あなたはあらゆる経験を言葉として蓄えているんだなと思った」と感想を送ってよこした。

 

私という人間を、私自身の分別のない頃から観察してきた人による作品への感想というのは、大変貴重だし興味深いと思ったが、その言葉には半分納得し、半分首を傾げた。

はたして私は私の経験を言葉として蓄えているだろうか。

 

小説という媒体を選んだのは、子供の頃に「これだ」と思って以来それを超える「これだ」がない、という単純な理由だが、もう少し絵がうまかったら、絵を描くことも真剣に取り組んだかもしれないな、と思う。そして私は映画を観ること、漫画を読むことが大好きだが、それらを制作してみたいと思ったことがない。自分が書いたものを朗読したり演じたりすることにも、大なる関心はない。目で追うときの引っかかりが少しでもなくなればと思って、書いている途中試しに声に出して読んでみることはあるけれど。

 

短篇集「最初についた嘘」に収録した「検体」を読んだ複数の人から「ねろり」という擬態語が印象的だったという感想をいただいた。どうしてこのような表現を、と聞かれて答えに窮した。私の目の前で揺れた検体のようすを表現するのに使った言葉がそれだった、というのみで、特段こだわりもなく書いていたからだ。

そのときからよくよく考えてみると、私は小説を書くとき、自分の頭の中に架空の記憶のような映像イメージがあって、それを文章であらわそうとしていることに気がついた。なんとなく物語をつくる人は多かれ少なかれそういうことがあるんじゃないかと想像するけれど、人によってイメージの構成要素は違うのかもしれない。

 

以前西加奈子さんが「サラバ!」を刊行した際のインタビューで、"この作品をつくるとき、「僕はこの世界に、左足から登場した。」という冒頭の一文が浮かんできて、小説家たるもの、言葉から物語を紡ぎ出したいとずっと願っていたので嬉しかった"というようなこと(大意)をおっしゃっていたのが記憶に残っている。それでいうと映像を浮かべながらわざわざ言葉に焼き直している私は、全然未熟か、あるいは単に迂遠なのかもしれない。でもはっきりと見えているこの映像をアニメーションにしたり、はたまた人を巻き込んで現実世界に再現したりしようとすると、薄皮が何枚もはさまれて味が遠くなるというか、賞味期限が切れそうというか(時間の問題ではない。自分の中で5年10年寝かしているイメージはザラにある)、とにかく気が進まない。

 

あともう一つ気がついたのが、私が頭の中に浮かべているイメージは無音である。台詞は、音でなく文字で浮かべている。サイレント映画のようなものを文字起こししながら、そこでどんな音が鳴っているか、どんな会話が交わされているかを想像してアテレコするように書いている。

たぶん、常日頃からあまり音に気が向いていないんじゃなかろうか。「雑音」「会話」「情報」の3種類くらいにソートして、適当にチャンネルを切り替えているだけのような気がする。

 

これは全然いう必要がない話だが、私は過去に恋をした相手のどこが好きかと問われると声、と思うことが多かった。これはおそらく、声が素敵な人を好きになるのではなく、その人への関心が最大限に高まってようやく相手の個性の一つとしての"声"に思い至るのであって、声に関心を持てる相手のことはすでにそうとう好きということではないかと思う。簡単に言えば耳があんまり仕事をしていない。

 

特に映像や音声表現、これらはたとえるなら流れる水のように動的で、こうした表現をするには私の頭の中は断片的にすぎる。シーンの集積、台詞の集積、単語カードを集めて一つのリングに綴じるみたいに文章を書いている。

人の耳は音声を途切れず拾うけれど、視覚は瞼のシャッターで、アナログ的にカシャンカシャンと切り替わる。

 

このワンシーンに説得力を持たせられたら、と思ってそこへ向かう道筋をせっせと積むが、その途中でこんな山道、果たして誰か他の人は登ってくれるのかと疑問に思う。めちゃくちゃ絵がうまかったらドガの「踊り子」みたいに、自分が最高だと思うシーンだけ描いて、飾っておけばいいのかもしれない。

 

文学フリマで本を買ってくれた方が「長篇を読んでみたい」と言ってくださったのはうれしかった。登るに足る高い山を、いつか立ち上げられたらいいのですが。