穴倉

王様の耳はロバの耳、

おそれ

 魔女を恐れていた頃があった。物心がついた頃、私はかなり遅かったので小学校に上がるかどうかの時期だと思う。

 実家は2階にリビングがあって、1階は玄関と物置きスペース、あとは駐車場になっている。 そのため人が出入りする日中はともかく、夜になると1階に誰かがいることはなく、物置きにあるものが入り用なときだけ降りていく。人のいないスペースに電気をつけておくわけもないので、 折り返し階段の踊り場をすぎると、 行く手にはまるで地下壕のような、 真っ暗な空間が口を開けている。

 あの暗闇には魔女がいる。幼い私にはそう思えてならなかった。黒い装束に身を包み、 奇妙に折れ曲がった鼻の先には巨大ないぼがあって、目が合うと指先でこちらをおどしながら、黄色い乱杭歯を見せてニタリと笑うのだ。私の中には明確に魔女のイメージがあったが、今思うとそれはディズニーアニメ「白雪姫」 に登場するものとほとんど相違がなかった。アニメでは高慢な女王の真の姿として描かれ、 世界中の子供たちを恐れさせた老婆が、私の実家1階の物置き脇にひそんで獲物を待っている。 ゼンデイヤが地元のスーパーで売り子をしているくらいあり得ない話だが、当時の私にはのっぴきならない事態であった。

 私はなかなかに賢い子供であったので、 子供向けアニメなんてしょせん嘘っぱちだということに気づいていた。魔女は毒リンゴなんて回りくどい手段は使わない。もっと確実に獲物を怯えさせ、かつ迅速に仕留められる武器を携えているはずである。だいたいどうしてリンゴなんだろう。そこそこ日持ちもするから、狙った獲物がまだいいや、と台所に置いているうちに全然関係のないやつが食べるかもしれないじゃないか。まぁ毒殺におけるリンゴという食材の妥当性はさておき、幼い私曰く魔女の武器はどう考えても刃物であった。

 刃物は怖い。ちょっと触って切れただけでも痛いので、刺さったりしたらめちゃくちゃ痛いはずである。人に向けてはいけないということを、私は親や先生から言い聞かせられたので知っているが、魔女にそんな理屈は通用しない。 むしろ向けちゃいけないからこそ向けてくるだろう。そしてこれから与えられるであろう苦痛に怯え、顔をゆがめて震える私の反応を十分に楽しんだあと、腹のあたりをぶすりとやる。そうすると血が噴き出して、内臓、たぶん腸とかが引きずり出されて、めちゃめちゃ痛いし絶対に助からない。血だまりに沈みゆく私を見て、魔女は高笑いするのである。

 そんな末期は絶対に嫌だったので、なんらかの護身術( 当時はそんな言葉は知らないが)で対抗する必要があった。魔女の武器は刃物なので、刺さらなければなんということはない。たいせつな腹部を守るため、まんが雑誌をズボンのゴム部分に挟んでTシャツの中にしのばせることにした。1発目はそれで躱せたとして、業を煮やした魔女の2の矢、3の矢を躱すことは容易ではない。その前にカウンターを奪い、魔女の動きを封じなければならない。

 ここで閃いた。魔女は老婆なので手首や足首の骨にそろそろガタが来ているはずだ。( 祖母が当時から、おばあちゃんは骨粗鬆症で骨が弱いのよ、とよくこぼしていた。体が弱くて嫌になる、と毎日愚痴を聞かされたが、それから20年近く経った今、どうしてなかなか健在である。)

 ローキックで足首の骨にダメージを与え、魔女が「ウッ」 と体を折ったところで刃物を取り上げ、 手の届かないところまで放る。すかさず腹部に仕込んだまんが雑誌を取り出し、背表紙の部分でしこたま脳天を殴打する。完璧な計画だ。いくら魔女といえど、出合い頭の子供にここまでされて戦意が残っているとは思われない。さらに殴っているうちに運よく気絶でもしてくれれば、両親を呼んで生け捕りにして、 警察などのしかるべき機関につきだすことも視野に入ってくる。

 イメージトレーニングを完璧にして、手持ちの中で一番いらない号の「ちゃお」を腹部に仕込むことで、私はなんとか泣かずに物置きにたどり着けていた。勝負は一瞬だから、事が起これば私一人で立ち向かう他ない。階段をそろそろと降りながら、頭の中はいかにして鋭いローキックを打ち込むか、でいっぱいだった。 物置きには時たま大きなクモやゴキブリが現れることもあったが、 魔女に比べればなんということはなかった。クモもゴキブリも、刃物を持っていないからである。

 それから年を重ねるなかで、恐れの対象は変化していった。ベッド下の空間、日本人形、カカシ、生け花、時計のない部屋… ありあまる時間と想像力とが、ありとあらゆるものを恐ろしく見せた。その一番始まりに階下に棲みつく魔女がいたこと、それを大学卒業ぶりに長期滞在した実家で、脚立を探して物置きに降りようとした拍子に思い出した。今はストレスが溜まるとホラー映画をいっき見するような大人になってしまったので、怖いものというと夜道と不審者くらいか。でもよく考えれば、あのとき魔女に対して備えた一連の護身は不審者に相対したときもそう変わらない。結局ローキックとちゃおです。あと知らない人からもらったりんごは一応先に誰かに食わそう。

 静岡には台風が来ていて、窓の外は風雨がすごいことになってきた。みんなもよいお盆休みをね。ウィンガーディアムレビオーサ。