穴倉

王様の耳はロバの耳、

モノカキのおじさん②

今日からいよいよ高校生。入学式の後、初めて教室に足を踏み入れた私たちは、緊張と興奮をみなぎらせ、互いに目配せをしあっていた…のかどうか覚えていない。そういうメモリアルな場面こそ記憶に残っていてほしいものだが、すっかり忘れてしまった。

覚えているのは、スキンヘッドの目のつぶらな担任が「えー」と一言目を発した瞬間の「いい声」という驚きと、その日に配られた更紙の学級通信のことだけだ。B4の紙を二つ折りにして4ページの冊子のようにしてあり、表題には手書きフォントのような変わった文字で「大いなる」とあった。中面には2ページ、身体測定の予定など、新学期の重要なお知らせが載っていた。そして、表紙と裏表紙は2段組み、文庫本くらいのフォントでびっしりと埋まっていた。先生が自筆した文章らしい。

内容はさすがに忘れてしまったが、たしか「これから高校生活を送る君たちへ」的なことが格調の高い文章で書かれていたように思う。こういう文章は、校長の話、学年通信、教頭の話、学級通信と、学校生活を送っていれば節目節目で何度も送られる儀礼のようなもので、いちいち心を動かされていたらきりがない。先生方もそうと知りつつやるしかないんだろうな、と軽く目を通したのだが、その文章の持っていた熱には何か感じるものがあった。借り物の美辞麗句ではなくて、この人なりの、これがスピーチなんだろうな、と思わせるような。

 

私の心をふわっと撫でて、やがて記憶から去っていくかに思われた学級通信「大いなる」はしかし、翌週も配布された。まだ、入学おめでとう、というハレの雰囲気を残しつつ、なんとか日常に移行していこうとする私たちを促すかのように、あっさりとした内容だった。おや、と思ったのは次の週である。「大いなる」はまた配られた。もう特に知らせることもなかったのか、B5の紙1枚両面に先生の文章だけが載っていた。しかも今度は、私たちに向けたメッセージというより、先生の個人的な日記のような…学級通信とは、何かお知らせがあるときに発行されるものではないのか?毎週これを配っていくつもりか?

 

疑問は数日後、教科担当の先生の言葉で解けた。

「このクラスはN先生のクラスか。じゃあ『大いなる』を読んでるね。君たちは運がいいよ。僕のクラスにも印刷して読ませたい。」

そう、「大いなる」は単なる始業のための臨時通信ではなかった。N先生は恒常的に「大いなる」を“執筆”し、“週刊”しているのだった。しかも驚くことに、この習慣はN先生が我が校に赴任して来てから20数年、欠かさず続けられてきたものだった。同僚たる職員たちの一部は“読者”であり、またファンなのだった。私は呆気にとられた。この量の文章を、毎週欠かさず、20年。はっきり言って、職員はともかく生徒たちが毎週ちゃんと読んでいるとは思えない。新しくできた私の友人たちも、ほとんど気に留めていないように見えた。クラスの問題点を追及するでもなく、クラスメイトの誰かがしていた小さなことを褒めてやるでもなく、ただ先生が日々の中で気づき、考えたことを淡々と書いているのである。何のために。誰のために。

 

あるときは、先生のお気に入りの本から一節を引き、作家の人生とからめて解説を加えていた。またあるときは、漫画の中のムチャな設定を現実で行おうとしたらどうなるか、複雑な数式(物理の先生にも見てもらったという)を並べて大マジメに検証するという、「空想科学読本」の真似事のようなことをしていた。修学旅行の次の号には、「京都にはもう行き過ぎてやることもないので、学年主任のM先生と比叡山で登山マラソンした」というようなことがエッセイ風に書かれていた。

 

読み続けるうちに私にはわかった。この人は物書きだ。配った内の何人が読むだとか、これを通して何を伝えたいだとか、そういうことを考えて書いているのではない。ただ書かずにはいられなくて、そして書いたからには発表せずにはいられなくて、そうして毎週書いて書いて、それを繰り返してきただけだ。本を出版して売り、収入を得るのは作家だ。でも、物書きは作家とは限らない。物書きは、職業ではなく性質だからだ。

 

ずいぶんドラマチックに書いてしまった。ブログや小説投稿サイトがあたりまえである今、こんなことは普通だと言われるかもしれない。しかし、先生は毎年変わる、クラスの生徒に向けて書くことを選んだのだ。仮に今年1年熱心な“読者”がついたとしても、来年受け持たなければそこで終わり。また先生は、1度として「大いなる」をちゃんと読めなんて言わなかったし、もちろん感想を求めたりもしなかった。ただ時折、数学オタクの男子が数式に難癖をつけたり、文学好きの女子が出典を聞いてきたりすると、ニヤリと笑って「おぅ」と応えた。その女子は、私であったのだが。

ブログを書こうとすると、悪魔のような自意識が「誰も読まないのに何書いちゃってんの?」と私を責めることがある。そんなときに、N先生の20年分の「大いなる」が、その純粋な喜びの蓄積が、私を救っている。

 

大変長くなってしまった。次にあと少しだけこぼれ話を書いて、N先生の話は終わりにしようと思う。