穴倉

王様の耳はロバの耳、

夢日記、舞台

体調が優れず、自宅勤務を終えるや否や、吐き気をこらえながらベッドに潜り込んだらそのまま、眠ってしまったらしい。


嫌な夢を見た。

私はさる劇団の一員のようだった。


本日上演されるのは中世ヨーロッパの物語。シェークスピア翻訳のような、貴族王侯たちのダイアローグ、芝居じみたセリフまわし。出演者はみな華やかに着飾る。男たちは髭と剣を、女たちはコルセットドレスと扇を。

私が村娘役の共演者と共に会場に到着したのは、すでにお客が、1,000席は超えようという大きな会場を満たしたあとだった。


開演まであと20分。

楽屋口から入るのが当たり前なのに、どうしてだろう、私と共演者は客席最前列にある小さな戸口から匍匐前進で奈落へ向かわなければいけなかった。まだリュックサックを背負って普段着で。舞台袖に着く頃にはうっすら汗をかいていた。冒頭に出番がある出演者たちは、準備を済ませ、発声練習など思い思いに過ごしている。


私の出番は第1幕の後半から。

演ずるのはリンクという名の若き貴族の青年だ。美麗で、これから貴族界を駆け上がる野望を抱き、一途で世間知らずで、未だ恋を知らない。20分以内には衣装をつけ、簡単なメイクを施し舞台袖に待機する必要がある。

どうしてこんなにぎりぎりになったんだろう。

夢は会場に着いたところから始まっていたので、理由は何もわからないままだ。ただ大事な舞台に遅刻なんて、私が悪いに決まっている。

一切責めず理由も聞かず、てきぱきと私の衣装やメイクを仕上げていく裏方スタッフたちに謝りながら、されるがままになった。


「リンク、出番まであと5分!」


声がかかる頃にはどうにか支度を済ませ、下手の袖で待機の状態に持ち込めていた。奇跡的だ。さすが信頼するスタッフたち。ありがたい。

ふと、手にした薄い冊子をみる。この舞台の台本らしかった。ぱらぱらとめくっていて気がつく。

台詞を覚えていない。

それどころか、どんな物語かも知らない。初見だ。

足の感覚がない。地面がなくなって、どこまでも落ちていくみたいだった。


確認すると、第1幕でのリンクのセリフは4つくらいで、そう長いものではなかった。

ただ、前後の共演者の台詞も頭に入れないことにはタイミングがわからない。

舞台に飛び出していくまであと2,3分。なんとかしなくては、と焦って何度も目を滑らせる。少し間違えてもいい、とりあえず流れを止めないように…

しかし、最初の台詞が気にかかる。

「準備が整いましたなら一献」

酒宴の開始を促す一言らしいが、この「一献」の読みは「いっこん」でよかったっけ?たしか「いっこん」だったと思うけど、こんな言葉一度も口に出したことがない。「いっこん」で伝わるんだろうか?「いっけん」という誤読の方が一般的で、あえてそちらに合わせて読んだ方が伝わる、なんてことがありそうな気がする。早急や重複、のような。


いや、舞台の流れを止めないことが重要だから、些末なことはいい。残りの台詞を覚えないと。

だけど本当に「いっこん」でいいのか?観客が、1,000人の観客が、意味がわからず不審に思うかもしれない。

楽屋のスマホで調べるか、演出家に尋ねたい。でも、そんな時間はない。

全身が熱い。どうして私はこんなところにいるんだろう。こんな華やかな格好で、台詞を全く頭に入れずに。私がこんな事態に陥っていることを誰も知らない。助けなんて求められない。こんな状況、どう考えたって私が悪いに決まっているからだ。


記憶にはないけれど、こんなことになるまでまぁいいやと後回しにし続けて、何も手を打たなかったんだろう。まわりには「そこそこやってるよ」なんて顔をして。私はそういう人間だ。


芝居は止まらない。2,3分が永遠のように長い。舞台は眩いほどに明るい。くらくらした。もうじきあそこへ出ていく、全部ばれてしまう、何もわからない、すべての人が私を見放す、私は一人で立ち尽くす……


目が覚めた。心臓が、早鐘のようだ。

部屋だ。夢だ。起きたんだ。

時計を見ると、午前1:30をまわったところだった。いつから寝ていたんだろう。寝る前の記憶が曖昧だった。


現実を認識すると、じわじわと嫌な気持ちが広がった。

助かった。また助かってしまった。今度こそ、ばれてしまうはずだったのに。

間一髪で、逃げてきてしまった。私のせいで、台無しになるはずだった舞台から。


スマホで調べたら「一献」はやはり「いっこん」で間違いないのだった。「いっけん」と誤読しないように注意!とまで書いてあった。私の夢の中なのに、どうして私の扱いきれない脚本が用意されるんだろう。私の知識と経験の限界を、私の脳が嗤っている。


あれは夢だ。私の頭の中にしかないんだ。だからもう大丈夫。そう思おうとしたけどだめだった。自分の頭の中の出来事が、一番怖い。


私が逃げたってきっと、舞台は終わらない。リンクは、舞台に上がったんだろうか。私ではないリンクが、私のかわりに絶望を引き受けたんだろうか。


私は私を知っている。私は私を隠している。卑劣にも平気な顔で、真っ当なふりをして、今日まで逃げおおせている。

いつか舞台に上がる。私は裁かれる。リンクはそのとき嘲笑うだろう。

私に味方はいない。私は一人で立ち尽くす。