穴倉

王様の耳はロバの耳、

クリスマスの夢・バレエ「くるみ割り人形」感想

長めです。が、途中とばしゾーン(?)つくったので、よければ読んでください。

12月半ば、今年のクリスマスは特に予定がないから自分で予定をつくって楽しく過ごそう、と決めた。
初めてケンタッキーでチキンを予約してみたり、トイザらスで自分のためにおもちゃを買ったりといろいろ楽しんだけれど、最も記憶に残ったのはバレエ「くるみ割り人形」を観に行ったこと。その感想を残しておく。

バレエを観に行くのは初めてで、よさがわかっていない状態で人を誘うわけにもいかない、と思い一人でチケットをとった。一方で、学生時代所属していたオーケストラで演奏したことがあったため、音楽には割と親しんでいる。演奏の参考に、とマリインスキー・バレエ団の動画は見たことがあった。

バレエ「くるみ割り人形」について、私の印象は、華やか/クリスマスの風物詩/子供向けの物語を大人も童心に帰って楽しむ、といったところ。
しかし物語については、正直よくわからん、と思い続けていた。
くるみ割り人形のあらすじは以下リンク。

NBS 日本舞台芸術振興会「くるみ割り人形」全2幕:ストーリー

 

夢見がちな女の子が、心がきれいだから見た目の醜いくるみ割り人形を大事にし、その褒賞として最高にきらびやかな夢を見られてハッピーになる話かぁ。
まぁ誰もが浮かれるクリスマスだし、そういう夢みたいなお話もたまにはいいかもしれないけど、基本的にnot for me。そう思う人、気が合いますね。
私は長らくそう思っており、今回の観劇には物語性での感動ではなく、イルミネーションを見に行くような、華やかさと季節感を堪能しに行った。

バレエの見どころは、素人の私が紹介しても仕方ないし、ネット上にもわんさかあふれている。従って下記は印象に残ったところだけ。(興味がない人は飛ばして、できれば★ラストシーンを読んでください)

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<1幕>
前奏曲かわいすぎる。世界観がぎゅっと濃縮されていて、目を閉じるとおもちゃとお菓子の王国が浮かんでくるよう。出だしから天才が過ぎるチャイコフスキー
・第一の見せ場、人形たちの踊り。舞台狭しと踊り回り、客席から拍手がわくも、スイッチが切れるとかくん、と止まってしまう姿には道化の哀しさも感じる。
★あまり一般的な演出ではないと思うが、ドロッセルマイヤー叔父のもとで奇術の見習いをしている甥が登場。原作物語ではくるみ割り人形の本来の姿であり、主人公と最後に結ばれる設定がある。バレエ版では必ずしもわかりやすく登場しないようだけれど、私が見た舞台では序盤の舞踏会のシーンで主人公クララへの恋心を仄めかしていた。この設定があとで効いた!
・舞踏会がお開きになり、名残惜しそうに人々が去っていく場面、長い。特にまだ遊びたい子供たちがどうにか残ろうとする芝居が笑いを誘う。それでも皆最後は手を振ってfarewell。

<2幕>
・お菓子の国の精たちがめいめいの出身地の踊りを披露する。(スペインの踊り、中国の踊り、アラビアの踊り…)突然万国博覧会っぽくなって最高に楽しい。
・2幕の見せ場(と勝手に思っている)、みんな大好き「ロシアの踊り~トレパーク~」。観たことがなくても、音楽は誰もが知っているはず。「くるみ割り人形」はドイツのお話なんだけど、ちゃっかりこんな曲を「ロシアの踊り」として書いちゃって心憎いよねチャイコフスキー、といつも思う。コサックで盛り上げ、観客の手拍子で加速して最後は「ハイ!」と決めポーズ、拍手喝采。このライブ感は観劇の醍醐味ですね。
・大好きな金平糖の踊り。(なぜかパ・ド・ドゥの1つ手前だった)チェレスタの奏でるこの密やかな夜のメロディーが、主人公クララの変わり身である金平糖の精にあてられているところに、子供の世界の深遠を感じられる。

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最後にはお菓子の国の精たちが勢ぞろいしてフィナーレを踊り、きらびやかな舞台の幕は一度閉じる。あぁ、美しかった、これでおしまい、と思ったその時、不思議な力を持つドロッセルマイヤー叔父が突然現れて意味深に微笑んだ。

★ラストシーン
ラストシーンには、私がこれまで「くるみ割り人形」に対して持っていた観念を壊し、再構築する力があった。
たった数秒の短いシーン。閉じた幕が再び開くと、部屋のベッドでくるみ割り人形を抱きしめ眠るクララ。薄くピンクに色づいた紗幕の向こうには、夢の住人であるお菓子の精たちがにこにこと手を振りながら、大きなブランコに乗って、右手奥へゆっくり遠ざかっていく。
そこに、ドロッセルマイヤーの甥が下手から走って登場する。先日の舞踏会でクララに恋をした彼は、胸に手を当て赤いバラを掲げ、クララに対する熱い気持ちを表現する。

そのままオーケストラが最後の一音を演奏し、終幕。

このシーンがあまりに美しく、またあまりに象徴的で、私は思いがけず泣いてしまった。
これは、子供時代への惜別だ。美しい空想と、甘いお菓子に彩られた少女時代はやがて終わる。彼女はこれから恋をし、外の世界を知るだろう。傷つき、力を蓄え、自分の足で歩むようになっていく。いつの日か、この甘美な夢のことも彼女は忘れてしまうかもしれない。子供の時間は一瞬だから、時間の経過は成長の喜びと同時に切ない別れをもたらす。

プレゼントを受け取る側から、贈る側へ。もう見られなくなってしまった夢を、せめて壊さないように大事に守る立場へ。クリスマスの贈り物は子供と、子供を愛する大人のためにある。子供向けの空想物語だと思っていた「くるみ割り人形」に、少女の成長を慈しみながら、過ぎていく時間を惜しむ大人の目を見つけて、胸を打たれてしまった。観終えて気づいたけれど、きっと子を持つ人たちは、初めからそのようにこの物語を見るんだろう。

 

L・キャロル「不思議の国のアリス」、エンデの「モモ」など、普遍的な童話は大人たちをも強く魅了する。そこには”大人からみる子供の世界の美しさと儚さ”が描き出されている。「くるみ割り人形」もそうした物語の一つに違いないと思う。


今回は日本のバレエ団の舞台を見て、予想以上に演出がよく、よい時間を過ごせました。次は、外国のバレエを観てみたいな。来年のクリスマスも楽しみです。

会社に行けた朝のこと

‪今朝、会社に行きたくない…とベッドの中でむずかっていると、なぜか唐突に、中学生の頃委員会でお世話になった先輩のことを思い出した。

 

先輩はべらぼうに頭がよく、シニカルな理屈屋で、特に論戦では容赦がなかった。友達は少なかった。

高校では接点が減った。しかし相変わらず成績はよく小難しい本ばかり読んでいて、友達は少なそうだった。たまたま会った図書室で、先輩将来どうするんですか、と聞いたら「日本をなんとかする」と言っていた。周囲の予想通り日本で一番有名な大学に進学した年、気まぐれに返してくれた年賀状には「能にハマっています」と書いてあった。

 

ふと思い立って先輩の名前で検索したら、思いがけずたくさんヒットした‬。縁もゆかりもない地方で、公共放送のアナウンサーとして活躍していらっしゃるようだった。私のよく知るニヒルな笑いではなく、新人アナウンサーらしい精一杯のスマイルとポーズを決めている姿をみて吹き出してしまった。

先輩、全然似合ってないです。昔の先輩がみたらひどいこと言いそうな笑顔ですよ。でも、同時に安心した。先輩はそこから、日本をなんとかしてくことにしたんですね。趣味:能と狂言と歌舞伎、と書かれたプロフィール欄だけは相変わらず、というか、なんか増えてるな。

 

少し笑ったあと、寝転んだまま両足を高く上げて、反動をつけて起き上がった。会社に行こう。私にはこの国を何とかしたいだなんて大きいことは言えないが、何とかしたいものが一つもないわけではない。あの時「君は何すんの」と聞かれて何と答えたのか、実はもう思い出せないのだけれど。いつか「今何してんの」と聞かれたときは、ちゃんと答えられる私でいよう。行きたくない会社に行って、やりたくないわけでもない仕事をして。

 

こうしたわけで、今日は会社に行けました。おそらく明日も行けるんじゃないかと思っています。

モノカキのおじさん②

今日からいよいよ高校生。入学式の後、初めて教室に足を踏み入れた私たちは、緊張と興奮をみなぎらせ、互いに目配せをしあっていた…のかどうか覚えていない。そういうメモリアルな場面こそ記憶に残っていてほしいものだが、すっかり忘れてしまった。

覚えているのは、スキンヘッドの目のつぶらな担任が「えー」と一言目を発した瞬間の「いい声」という驚きと、その日に配られた更紙の学級通信のことだけだ。B4の紙を二つ折りにして4ページの冊子のようにしてあり、表題には手書きフォントのような変わった文字で「大いなる」とあった。中面には2ページ、身体測定の予定など、新学期の重要なお知らせが載っていた。そして、表紙と裏表紙は2段組み、文庫本くらいのフォントでびっしりと埋まっていた。先生が自筆した文章らしい。

内容はさすがに忘れてしまったが、たしか「これから高校生活を送る君たちへ」的なことが格調の高い文章で書かれていたように思う。こういう文章は、校長の話、学年通信、教頭の話、学級通信と、学校生活を送っていれば節目節目で何度も送られる儀礼のようなもので、いちいち心を動かされていたらきりがない。先生方もそうと知りつつやるしかないんだろうな、と軽く目を通したのだが、その文章の持っていた熱には何か感じるものがあった。借り物の美辞麗句ではなくて、この人なりの、これがスピーチなんだろうな、と思わせるような。

 

私の心をふわっと撫でて、やがて記憶から去っていくかに思われた学級通信「大いなる」はしかし、翌週も配布された。まだ、入学おめでとう、というハレの雰囲気を残しつつ、なんとか日常に移行していこうとする私たちを促すかのように、あっさりとした内容だった。おや、と思ったのは次の週である。「大いなる」はまた配られた。もう特に知らせることもなかったのか、B5の紙1枚両面に先生の文章だけが載っていた。しかも今度は、私たちに向けたメッセージというより、先生の個人的な日記のような…学級通信とは、何かお知らせがあるときに発行されるものではないのか?毎週これを配っていくつもりか?

 

疑問は数日後、教科担当の先生の言葉で解けた。

「このクラスはN先生のクラスか。じゃあ『大いなる』を読んでるね。君たちは運がいいよ。僕のクラスにも印刷して読ませたい。」

そう、「大いなる」は単なる始業のための臨時通信ではなかった。N先生は恒常的に「大いなる」を“執筆”し、“週刊”しているのだった。しかも驚くことに、この習慣はN先生が我が校に赴任して来てから20数年、欠かさず続けられてきたものだった。同僚たる職員たちの一部は“読者”であり、またファンなのだった。私は呆気にとられた。この量の文章を、毎週欠かさず、20年。はっきり言って、職員はともかく生徒たちが毎週ちゃんと読んでいるとは思えない。新しくできた私の友人たちも、ほとんど気に留めていないように見えた。クラスの問題点を追及するでもなく、クラスメイトの誰かがしていた小さなことを褒めてやるでもなく、ただ先生が日々の中で気づき、考えたことを淡々と書いているのである。何のために。誰のために。

 

あるときは、先生のお気に入りの本から一節を引き、作家の人生とからめて解説を加えていた。またあるときは、漫画の中のムチャな設定を現実で行おうとしたらどうなるか、複雑な数式(物理の先生にも見てもらったという)を並べて大マジメに検証するという、「空想科学読本」の真似事のようなことをしていた。修学旅行の次の号には、「京都にはもう行き過ぎてやることもないので、学年主任のM先生と比叡山で登山マラソンした」というようなことがエッセイ風に書かれていた。

 

読み続けるうちに私にはわかった。この人は物書きだ。配った内の何人が読むだとか、これを通して何を伝えたいだとか、そういうことを考えて書いているのではない。ただ書かずにはいられなくて、そして書いたからには発表せずにはいられなくて、そうして毎週書いて書いて、それを繰り返してきただけだ。本を出版して売り、収入を得るのは作家だ。でも、物書きは作家とは限らない。物書きは、職業ではなく性質だからだ。

 

ずいぶんドラマチックに書いてしまった。ブログや小説投稿サイトがあたりまえである今、こんなことは普通だと言われるかもしれない。しかし、先生は毎年変わる、クラスの生徒に向けて書くことを選んだのだ。仮に今年1年熱心な“読者”がついたとしても、来年受け持たなければそこで終わり。また先生は、1度として「大いなる」をちゃんと読めなんて言わなかったし、もちろん感想を求めたりもしなかった。ただ時折、数学オタクの男子が数式に難癖をつけたり、文学好きの女子が出典を聞いてきたりすると、ニヤリと笑って「おぅ」と応えた。その女子は、私であったのだが。

ブログを書こうとすると、悪魔のような自意識が「誰も読まないのに何書いちゃってんの?」と私を責めることがある。そんなときに、N先生の20年分の「大いなる」が、その純粋な喜びの蓄積が、私を救っている。

 

大変長くなってしまった。次にあと少しだけこぼれ話を書いて、N先生の話は終わりにしようと思う。

モノカキのおじさん①

昔から本を読むことが好きだったので、作家やライターといった、いわゆる物書きの人々に興味があった。タレントなど表舞台の人々と違って、物書きの情報はこちらが注意を払わねば手に入らない。大作家にはもう死んでこの世にいない人もいるけど、まだ生きていてこんなにおもしろい本を出す人もいるんだ。いつかそんな人と話してみたいよなぁ、と小学校の図書室でぼんやり思ったりしていた。

 あいかわらずメディア上で物書きたちを追いかけてはいるが、残念というべきか、現在に至るまで私が物書きと一定期間にわたって交流を持ったことはたったの一度しかない。その人の職業は教師であった。

 N先生は、私の高校1年と2年のクラス担任だった。担当教科は国語。痩身で背も高くなく、スキンヘッドなのに目がつぶらなおじさんだった。見た目からは予想もつかないほどの美声の持ち主で、漢文の朗読などは、どうしてなかなか聞き応えがあった。

 先生は、わかりやすくいえば、常識のある変人だった。ニッチなものを見つけるたび嬉しそうにクラスに報告し、生徒が知っていると「フフン、やるな」とにやついた。授業に関する質問はとことん答えてくれたが、それ以外のことを聞くとだいたい面倒そうな顔をした。

 

芥川龍之介の「羅生門」を扱った授業は、忘れようにも忘れられない。下人が息をひそめて老婆をうかがっている緊迫した場面で、先生はやにわに黒板に毛根の絵を描きだした。

「“頭身の毛も太る”という描写があるが、実際に毛が太るはずがないよな。これはつまり緊張してアドレナリンが出て、毛穴が収縮してるわけだな。それで逆に毛が太ったように感じる。毛が逆立つって表現もあるな。昔はアドレナリンとかそういうことは知らないが、気持ちが昂ぶったときに毛がザワッとなることは感覚でわかっていたわけ。」

ヘェ〜なるほどねという気持ちはもちろんあったが、いかんせんそれを解説する先生がスキンヘッドなのだ。スキンヘッドのおじさんが毛根の絵を描いて「毛が」「毛穴が」といっている。しかもいい声で。腹に力を入れすぎて死んでしまう、と思った。私はなんとか持ちこたえたが、友人はそこで一度死んでしまったらしい。「自分の髪型を計算に入れたイタズラだと思う」とあとで憤慨していた。

 

そんなふうに、妙でありながらもどこか粋だった先生が、実は物書きであったことについて、次の記事で書こうと思う。

続・記憶と記録

前回書き忘れたけれど、日記が続かなくなったことの理由の一つにSNSを始めたことがある。感じたことを感じたときに、他者に向けておおむね発せるようになったことで、私を日記へ向かわせる衝動の一つは消えてしまった。しかしもう一つ私にとって重要な問題が残っている。すなわち「記録する」ということだ。

SNSのつぶやきは140字という制限の中で、人とのコミュニケーションも考慮に入れながら発していくものだ。1日のつぶやきの数はまばらで、長さもまちまちだ。そしてすべて、アカウントを消してしまえば残らない。私にはSNSを記録として信用することができない。

 

思えばきっかけは、家計簿をつけ始めたことだった。毎日、その日使った金額と使途を書き入れる。1日の作業は5分程度だが、毎日続けることで徐々にページが埋まっていく。その過程に安息を感じることに気がついた。小学生のころに感じていた記録の喜びが、戻ってきたのだった。

同じく、最近始めたのは聴いた落語をつける小さな手帳だ。噺家と演目、そして自分の感想を簡潔にメモする。昨年から聴きはじめた落語だが、たくさん聴くにつれ、誰が何を演ったのか覚えていないと楽しみが半減してしまうと思い、書き始めた。色味はないが、余分な箇所もない記録、それがたまっていくこと、この先忘れてしまっても、その日その時はあったのだと確かに感じられること。

 

私はしばらく日記をやめることにした。前回の記事で振り返って思ったことだが、長く書きすぎて関係がこじれてしまったのかもしれない。そのかわり、前述のような単純な記録をいくつか、無理のない範囲でつけていくことにした。一つの機能しかもたない記録が、長い時間ののちに自身にどう作用するかにも興味がある。

 

そしてもう一つ、忘却を過度に恐れるのでなく、その力を逆手に取る努力をすることにした。つまり、記憶の選別ととらえるようにするのだ。忘れっぽい私が、長い時間を経ても覚えていること。意識の上で覚えていようとしたことすら忘れてしまう私の頭が、無意識で捨てなかったもの。そこには何か、私にとって重要なものがあるのではないか。

このブログをなかなか書けなかったのは、今日、あるいは直近に感じたことや考えたことを書こうとしていたのが一因ではないかと思う。そうではなく、過去の話を。忘却の厳しい選別に耐えた、私に何かを告げているかもしれない(そして他人には何の益もないかもしれない)記憶について、書いたらいいのではないか。

記録ではないから、改変があるかもしれない。誇張があるだろう。美化もあるはずだ。でも、これは私の記憶の話だ。かまわない。遺したい。

 

これが私のパラダイムシフト。記憶と記録、それぞれとの付き合い方を見直した。こうしたわけで、これからときどき過去についてのことを書こうと思う。書くからには、何か意義を持たせたい。人に読んでもらうのに耐えるように、自分なりに工夫しながら書いていきたい。

まずは、一つの記事を短くするところからかな…

記憶と記録

気がついたら日記が苦手になっていた。

 

私が日記を始めたのは小学生の時。ハリー・ポッターに関する記事を読みたくて買ってもらった雑誌「MOE」で、20年間日記を書き続けているエッセイストの方の日記の美学を読んだからだ。

毎日3行ずつ、アリエルが表紙のA4ノートにその日あった出来事を書き続けた。3行と決めたのは、どれくらい書いていいかわからず、決めないと際限なく書いてしまったからだった。当時近所のおばさんに「口から生まれてきたみたい」と言わしめるほどのおしゃべりだった私は、うんざりした両親から「口より手を動かせ」「沈黙は金、雄弁は銀なんだ」とさんざん小言を言われて、それでも話したりないことを書くのが日記だと思っていた。たった3行にこれでもかというくらい小さな字で、長かった1日を詰め込んでいた。

 

日記の形式が変わったのは中学生になった頃。友人と過ごす時間が増え、話し相手に事欠かなくなった。この頃の日記には、話した相手のことよりも話さなかった相手のことを多く書いてある。もどかしさやもの足りなさこそが、心の重要事項だと感じていたみたいだった。無印良品のA4リングノートに、2,3日で1ページ。必ずお気に入りのボールペンで。この日記がなぜ幸運にも残っているかと言えば、勉強机の鍵つき引き出しに大事にしまわれていたからだ。アリエルのノートは、白紙の数ページを残してすべて破られてしまっている。母に部屋から探し出された後、泣きながら破ったのだった。

 

高校生の頃の日記は読んでいて本当に楽しい。その日あった面白かったこと、好きな漫画のこと、仲のいい友達のこと。女子高生らしく、顔文字や絵文字も使っている。そのためか、文面もメールのようで読みやすいうえに、笑いどころや突っ込みどころをわざとつくってありエンターテイメント性が高い。この頃から私にとって日記は「書く」だけではなく「読む」ものとして意識され始めたみたいだ。

 

それには友人たちの影響を受けて社会性が高まったことの他に、もう一つ理由がある。高校生になったくらいから、私は自分がちっとも覚えていないことに気がついた。生まれてから3歳まで住んでいた横浜のこと。両親が持ち家を買うまで住んだ、山のふもとにあるアパートメントのこと。小学校で教科担任だった先生のこと。私は済んだことをものすごいスピードで忘れていっていた。この話をすると「みんなそうだよ」という人がいるが、私は中学校で3年間同じ部活に所属した友人の名前を、高校2年でもう思い出せなかった。人よりもずいぶん、海馬のできが悪いのだと思う。

今日という1日が、今の気持ちが、あっという間に忘れられてなかったことになってしまう。そのことに気づいた私は、抗いがたい忘却の力をほとんど恐れた。その力に唯一対抗できるのが、日記だった。

私の日記はメールにも近い文面の軽さとは裏腹に、どんどん長くなった。この頃使っていたのは、ディズニーキャラが表紙を飾るB5のリングノートだが、1日1ページ、多い時は2ページ、小さな字でびっしり書いてある。何を書き、何を捨てるべきか、また選べなくなっているのがわかる。

 

日記帳の終わりの方になると、日付の間隔はだんだん広くなっていった。受験生がそう毎日毎日、そんな長い日記を書いていられないからだ。

そして現在、手元にある薄いB5のノートは、日記と呼ぶにはあまりに断続的だ。数日間数ページにわたる記録が書き連ねられたかと思うと、突然半年後にとんでいたり。日々の記録からは程遠いし、なんだか渡り鳥の観察記みたいだ。そしてさらによくないことに、いつのまにか苦しくて人にも伝えられないようなことばかり書くようになっており、ノートの持つ負の力が尋常ではない。

 

これは私のめざしていた日記ではない。私の遺したいものはこんなものではない。

そこで、いくつかのパラダイムシフトを試みることにした。このことが書きたくて、それなのにここに至る経緯をこんなに長々と書いてしまった。続きはあす以降に書くことにする。

SNS生理学

Twitterを愛用している。大学に入ってすぐに始めて、アカウントを消したり増やしたりしたが、今は大学の知人などをほとんどフォローせず、インターネット上で見つけたおもしろい人をチェックしながら、自分の頭の中を書きとめるスタイルに落ち着いた。

フォローのゆるいつながり方も好きだし、自分の過去ツイートを見直すのも楽しい。あえて知人をフォローしないことで人間関係のごたごたも避けることができ、SNSとよい距離感を保てているように思う。

 

アカウントの使い方は人それぞれで、鍵をかける人、ネタツイートをしてフォロワーを増やす人、他者のRTが多い人など、各々機能をめいっぱい利用して遊んでいる。

 

その中に、一定数存在するがまったく理解できない、という種類のアカウントがある。ツイートに中身がなく、無差別なのか、フォローをしてくるけれど、こちらがフォローをしないとそのうちはずれてしまうアカウント。あるいは、その管理すらする気がないのか、フォローしっぱなしでどんどん次にいくので、フォロー数が天文学的数字になっているアカウント。なぜか、アダルト風アカウントとビジネスマン風アカウントが多い。

フォロワーを増やしたい、という気持ちはよくわかる。しかし、それはツイートで商売や自己表現を行っていればの話だ。ツイートがほとんどなかったり、ごくたまに誰かの名言や色っぽい女性の写真をあげるだけなのに、どうしてアカウントを肥大させたいのだろう。

 

そんな疑問をもちながら、あることを思い出していた。

小学生のころ、思ったことがある。「ウィルスってなんで存在してるんだろう」。つい先ほどまでインターネットの話をしていたからややこしいけれど、これは人の体を媒介して蔓延するあれのことだ。

ウィルスは、他の生物がいないと生きていけない。しかしながら、宿主はしばしばウィルスによって体調を崩す。死なせてしまうこともある。そうなったら自分(自分たち?)の存続が危ぶまれるから、常に新しい宿主を探さなければならない。「蔓延する」ことが、ウィルスにとって唯一の生きる道である。

 

なんという不安定。なんという理不尽。彼らは、存在するために存在している。生きるために必死で生きなければならない。目的と手段の完全なる一致。「生には目的がある」と思っていた小学生の私には、これがひどく無意義に思えた。

しかしながら、これこそが究極の有意義なのかもしれない。なぜ生きる、なんのために生きる。この問いに対する普遍的な答えを得ようとした賢人たちの試みは、ことごとく失敗に終わってきたように思えるからだ。生きるために生きる。生まれたから生きる。ウィルスという生き物(?)のありかたが、この世界の秘密なのかもしれない。

 

私は不可解なアカウントたちにも、これに似た本能めいた何かを感じたのだった。内容の是非ではない。もっとフォロワーを。自己の存在をもっと大きく、もっと確かに。顔も名前も見せないままインターネット社会で蔓延しようとしている彼らも、ひとつの哲学かもしれなかった。