穴倉

王様の耳はロバの耳、

モネ

久しぶりにブログを開いた。

今日は京都市美術館で開催中のモネ展に行くことができたのでそのことについて書く。

 

私は混んでいる美術館がきらいだ。今日、一歩美術館に足を踏み入れたとき、あ、無理だ、と思った。1100円もったいないな。また来よう。1つ1つの絵の前にできている人だかり、を越してなお絵を見ようと背のびする人たち、のまわりで私見を交し合う人たち。とても美術品に集中し、モネを見つめられる環境ではない。

 

そう思っていたのに、若き日のカリカチュアやモネの敬愛した画家たちの作品を通り過ぎ、モネの油彩が壁に掛かりはじめたとたん、まわりの音がすぅっと消えた。鮮やかさ、としか言いようのない存在感があるのに、このやさしさ。大気の柔らかさ。この中のほんの1枚でも描くことができるなら、私は命をもって贖う、と思う。

 

今日のような環境で作品を楽しめたのは、モネの作品の一つの特徴ゆえだと思う。美術に明るいわけでないので単なる感想だけれど、モネの絵は少し離れて全体を捉えたときがもっとも美しい。最前列で見ているときは、こんなところにこんな色を、天才の絵はなんとも不思議、なんて思うこともあるのだが、数歩離れてからふと見やるとアッと声が出るほど調和して、これ以上ない、完璧な美の表現がそこにあるのだった。

 

今回特に印象的だったのは自邸の庭を描いた作品群≪睡蓮≫。作品のために精力的に旅行にでかけた時期もあったモネだが、晩年に近づくと自身の最高傑作とも言われた自邸の庭を繰り返し描いている。

ところで、私にはモネと並んで好きな画家がいる。ベルギーが生んだシュルレアリスムの巨匠ルネ・マグリット、彼は奇抜で難解なモチーフによって知られている一方で、生涯にわたり繰り返し妻のジョルジェットを描き続けた。どんな画家も、自分の愛するものは何度も、何度も、愛を重ねるように描いてしまうんだろうか。

モネの話だが、繰り返し描かれた彼の≪睡蓮≫をみて、私は自然の持つ一瞬一瞬のあたらしさ、をみる思いだった。昨日みた水面は今日の水面ではない。風にゆれ、陽光を反射する木立は一秒として同じ瞬間がない。自然が変化するから私たちの知覚も変化するのか。それとも、きのうの私と今日の私が違っているから、庭はかくも異なる表情を見せるのだろうか。モネは絶えず変化する水面を描く難しさを「気が狂いそうだ」と表現したと、館内のパネルに書いてあった。

 

モネの生涯にそって組まれた展示を追い、最晩年の作品を展示した部屋に辿り着いた。モネの眼を通してモネの庭を鑑賞し、彼と自分なりに心を通わせようとしていた私は現実に引き戻された。クロード・モネはもう、この世にいない。唯一無二の才能は永遠に喪われ、この絵を描く人はもう現れないだろう。そんな気持ちに襲われて、泣きながら最後の部屋を一周した。

雑踏が戻ってきた。「まぁーすごいわぁ」「ちょっと離れてみるとまたええなぁ」みんな、モネのつくった美に魅せられているのだった。ここにいる人たちと私は今、まったく同じだった。モネの絵が、誰とも似ていないのに、まったく新しいのに、懐かしいのはなぜだろう。よい芸術家は、人が普遍的に持っている美の概念そのものを表出すると聞いたことがある。

 

クロード・モネはもう、この世にいない。ただ彼の遺した作品だけが、私たちの中に眠っていた美を揺り起こすように、世界を周っている。

 

京都市美術館

マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展「印象・日の出」から「睡蓮」まで

https://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/exhibition/2015fiscal_marmottan.html

 

後期展示の≪テュイルリー公園≫を見たく、もう一度行こうか思案中。