穴倉

王様の耳はロバの耳、

槌を振るう人

「人を叩く」という言葉はいつできたのだろう。もしかしたらかなり旧くからあるのかもしれないが、ここまで活躍するようになったのはやはりインターネット社会の発展があったからだろう。

 

今は誰だって叩かれる時代だけれど、叩かれやすいのはやはり公務員のように思う。「血税で食べさせてもらっているのだから、社会の規範たるのは当然」という意識が蔓延しているようだ。しかし、それは本当だろうか。

 

私たちには、職業選択の自由がある。その中で、公務員を選ぶもの、一般企業を選ぶもの、そのほかの働き方を選択するもの。この時点で個人に求められることに、そこまでの差異があるとは思えない。

そしてその給与の支払われ方は、およそ誰に対して価値を生み出したかというところに依るだろう。一般企業では、会社のために働くから会社から給与をもらう。クリエイターであれば、作品の価値を認めた消費者、あるいは媒介者から金銭を受け取る。公務員は、社会に必要と認められた職業であるから、社会全体から等しく給与を受け取る。それが税金だ。

ここまで来て問題が生じる。「社会に必要と認められた」とは何なのか。これこそが、公務員が叩かれることの本質ではないかと思う。

 

私の中にある、公務員を特別に叩く人への違和感は、税金を「取られる/盗られる」と表現する人への違和感と通じている。まるで現在の日本社会が、税金を取る人間と、取られる人間がつながっていない、前近代的な社会であるかのように聞こえるからだ。それは違う。私たちは国政や市政に参加することができる。どんな人でも関わることができる、というのが間接民主制の優れた点だが、もっと直接関わりたければ議員になるという道もある。

私たちは税金を「払って」いるはずだ。自分に直接与えられる恩恵でなくとも、社会に不可欠な仕組みのために。そして公務員の担っている仕事は、その仕組みを支えているものであるはずだ。”私と関係のない「社会」というやつが勝手に必要と認めた仕事”ではない。あなたは社会の一部として、その「必要」を見極めることができる。そのはずだ。

 

実態のよくわからない「社会」というものに、自分は参加していない、あるいはできていない。そのような意識が、自分たちの税金を「使われて」いる不安さとないまぜになり、個々の人々への攻撃に向かう。「公務員のくせに」「誰の金で飯を食ってる」ここまで露骨にいう人ばかりではないが、公務員と名のつく職業に、自分に課すよりも高いレベルの人間性、もっと言えば聖性を求める人は少なくない。仕事の内容とはまったく関係ないところの話だ。

それはおかしい。私たちは公務員の、広義で言えば顧客。税金に対して求める対価は彼らの仕事であるはずだ。それでやりとりは完結するはずなのに、「態度がなってない」「自分の生活より市民の生活を優先すべき」などと価値‐対価の論理から逸脱した意見をよく目にする。

 

公務員が給与を税金でもらう。これは制度だ。そのことに納得できないのなら、この制度をよく検分し、金の出どころと出し方は適切か、そうでなければ改正の余地はどこにあるか、そうしたことを考えるのが社会に参加しようとする人間の態度ではないだろうか。

「俺の金で飯を食うのだから俺の思う通りの人間になれ」

どうか、そんな勘違い亭主関白のようなことを、家の外でまで言わないでほしい。

 

なお、私はマスコミが「東大生、ストーカー殺人」とか「サッカー強豪の○○校で未成年喫煙」のように関係ない分野で秀でていることを強調して事件を報道することにも「叩く」の理不尽さを感じているのだが、それに関してはまたいつか書くことにする。