穴倉

王様の耳はロバの耳、

振る舞う

振る舞うことをやめられない。

例えば、電車でボックス型の席に座る。向かいの空席に人がやってきそうだと見るや否や、心も身体も疲れきり、人生のどん底、と私が思う表情をつくる。その表情のままはかなげに(と私が思う角度で)窓の外を見つめる。すべてを憂えているように見せながら、その実なんにも考えちゃいない。

たっぷりとふるまいを楽しんだ後、ふと、いかにもふとという感じで向かいの人に目をやる。
向かいの人は、「なぜ朝からこんなに悲しそうなんだ。この人の身に一体何が」という表情を浮かべて私を見ている。そうなったらしめたものだ。
私は、私の身にまったく無関係のありとあらゆる悲劇に酔う。父親の虐待、母親の蒸発、恋人の借金、入退院に次ぐ入退院。不幸の申し子である私を列車は運ぶ。そして、嗚呼、この電車を降りたら私保津峡から飛び降りてすべてを終わりにする…感を全身で表現しながら十三で下車する。

意味不明の満足感にひたりながら歩き出して、ふと思う。向かいの人のあの表情。人間はあんなにも「他者の不幸顏を見てその人の境遇を想像し不憫に感じています」顏をできるものだろうか。
私にはおそらくできない。向かいの人の顔に憂いがべっとり塗られていようが、腹でも痛いのかと一瞥するくらいのものである。
とすると、まさか。あの人も振る舞っていたのではないか。「向かいの人の超一級の不幸を表情から汲み取り、無言でその境遇に思いをはせる」を楽しんでいたのではないか。なんということだ。やられた。私は彼女の娯楽にまんまと一役買ったのだ。楽しんでいるつもりが、楽しませていたとは。

そうやって悔しがるふりをしながら、本当はくつくつと笑いたくなるくらいおかしい。世の中そんなものではないか。どんなやり方にしろ、みんな自分という役割を演じている。女優になれる器量はないけれど、たまには違うロールを演じてみたっていいはずだ。

こんな話をするとまあまずふざけていると思われるし、否定はしない。私はこれまでの人生の大半を真剣にふざけるということに使ってきたので、もはや信念めいたものになっているのだ。

読み返してみて、それでもこれはさすがにひどいよなと思うが、始めに書いたとおりやめられない。やっぱり、治るのなら処方箋がほしい。