穴倉

王様の耳はロバの耳、

記憶と記録

気がついたら日記が苦手になっていた。

 

私が日記を始めたのは小学生の時。ハリー・ポッターに関する記事を読みたくて買ってもらった雑誌「MOE」で、20年間日記を書き続けているエッセイストの方の日記の美学を読んだからだ。

毎日3行ずつ、アリエルが表紙のA4ノートにその日あった出来事を書き続けた。3行と決めたのは、どれくらい書いていいかわからず、決めないと際限なく書いてしまったからだった。当時近所のおばさんに「口から生まれてきたみたい」と言わしめるほどのおしゃべりだった私は、うんざりした両親から「口より手を動かせ」「沈黙は金、雄弁は銀なんだ」とさんざん小言を言われて、それでも話したりないことを書くのが日記だと思っていた。たった3行にこれでもかというくらい小さな字で、長かった1日を詰め込んでいた。

 

日記の形式が変わったのは中学生になった頃。友人と過ごす時間が増え、話し相手に事欠かなくなった。この頃の日記には、話した相手のことよりも話さなかった相手のことを多く書いてある。もどかしさやもの足りなさこそが、心の重要事項だと感じていたみたいだった。無印良品のA4リングノートに、2,3日で1ページ。必ずお気に入りのボールペンで。この日記がなぜ幸運にも残っているかと言えば、勉強机の鍵つき引き出しに大事にしまわれていたからだ。アリエルのノートは、白紙の数ページを残してすべて破られてしまっている。母に部屋から探し出された後、泣きながら破ったのだった。

 

高校生の頃の日記は読んでいて本当に楽しい。その日あった面白かったこと、好きな漫画のこと、仲のいい友達のこと。女子高生らしく、顔文字や絵文字も使っている。そのためか、文面もメールのようで読みやすいうえに、笑いどころや突っ込みどころをわざとつくってありエンターテイメント性が高い。この頃から私にとって日記は「書く」だけではなく「読む」ものとして意識され始めたみたいだ。

 

それには友人たちの影響を受けて社会性が高まったことの他に、もう一つ理由がある。高校生になったくらいから、私は自分がちっとも覚えていないことに気がついた。生まれてから3歳まで住んでいた横浜のこと。両親が持ち家を買うまで住んだ、山のふもとにあるアパートメントのこと。小学校で教科担任だった先生のこと。私は済んだことをものすごいスピードで忘れていっていた。この話をすると「みんなそうだよ」という人がいるが、私は中学校で3年間同じ部活に所属した友人の名前を、高校2年でもう思い出せなかった。人よりもずいぶん、海馬のできが悪いのだと思う。

今日という1日が、今の気持ちが、あっという間に忘れられてなかったことになってしまう。そのことに気づいた私は、抗いがたい忘却の力をほとんど恐れた。その力に唯一対抗できるのが、日記だった。

私の日記はメールにも近い文面の軽さとは裏腹に、どんどん長くなった。この頃使っていたのは、ディズニーキャラが表紙を飾るB5のリングノートだが、1日1ページ、多い時は2ページ、小さな字でびっしり書いてある。何を書き、何を捨てるべきか、また選べなくなっているのがわかる。

 

日記帳の終わりの方になると、日付の間隔はだんだん広くなっていった。受験生がそう毎日毎日、そんな長い日記を書いていられないからだ。

そして現在、手元にある薄いB5のノートは、日記と呼ぶにはあまりに断続的だ。数日間数ページにわたる記録が書き連ねられたかと思うと、突然半年後にとんでいたり。日々の記録からは程遠いし、なんだか渡り鳥の観察記みたいだ。そしてさらによくないことに、いつのまにか苦しくて人にも伝えられないようなことばかり書くようになっており、ノートの持つ負の力が尋常ではない。

 

これは私のめざしていた日記ではない。私の遺したいものはこんなものではない。

そこで、いくつかのパラダイムシフトを試みることにした。このことが書きたくて、それなのにここに至る経緯をこんなに長々と書いてしまった。続きはあす以降に書くことにする。