穴倉

王様の耳はロバの耳、

SNS生理学

Twitterを愛用している。大学に入ってすぐに始めて、アカウントを消したり増やしたりしたが、今は大学の知人などをほとんどフォローせず、インターネット上で見つけたおもしろい人をチェックしながら、自分の頭の中を書きとめるスタイルに落ち着いた。

フォローのゆるいつながり方も好きだし、自分の過去ツイートを見直すのも楽しい。あえて知人をフォローしないことで人間関係のごたごたも避けることができ、SNSとよい距離感を保てているように思う。

 

アカウントの使い方は人それぞれで、鍵をかける人、ネタツイートをしてフォロワーを増やす人、他者のRTが多い人など、各々機能をめいっぱい利用して遊んでいる。

 

その中に、一定数存在するがまったく理解できない、という種類のアカウントがある。ツイートに中身がなく、無差別なのか、フォローをしてくるけれど、こちらがフォローをしないとそのうちはずれてしまうアカウント。あるいは、その管理すらする気がないのか、フォローしっぱなしでどんどん次にいくので、フォロー数が天文学的数字になっているアカウント。なぜか、アダルト風アカウントとビジネスマン風アカウントが多い。

フォロワーを増やしたい、という気持ちはよくわかる。しかし、それはツイートで商売や自己表現を行っていればの話だ。ツイートがほとんどなかったり、ごくたまに誰かの名言や色っぽい女性の写真をあげるだけなのに、どうしてアカウントを肥大させたいのだろう。

 

そんな疑問をもちながら、あることを思い出していた。

小学生のころ、思ったことがある。「ウィルスってなんで存在してるんだろう」。つい先ほどまでインターネットの話をしていたからややこしいけれど、これは人の体を媒介して蔓延するあれのことだ。

ウィルスは、他の生物がいないと生きていけない。しかしながら、宿主はしばしばウィルスによって体調を崩す。死なせてしまうこともある。そうなったら自分(自分たち?)の存続が危ぶまれるから、常に新しい宿主を探さなければならない。「蔓延する」ことが、ウィルスにとって唯一の生きる道である。

 

なんという不安定。なんという理不尽。彼らは、存在するために存在している。生きるために必死で生きなければならない。目的と手段の完全なる一致。「生には目的がある」と思っていた小学生の私には、これがひどく無意義に思えた。

しかしながら、これこそが究極の有意義なのかもしれない。なぜ生きる、なんのために生きる。この問いに対する普遍的な答えを得ようとした賢人たちの試みは、ことごとく失敗に終わってきたように思えるからだ。生きるために生きる。生まれたから生きる。ウィルスという生き物(?)のありかたが、この世界の秘密なのかもしれない。

 

私は不可解なアカウントたちにも、これに似た本能めいた何かを感じたのだった。内容の是非ではない。もっとフォロワーを。自己の存在をもっと大きく、もっと確かに。顔も名前も見せないままインターネット社会で蔓延しようとしている彼らも、ひとつの哲学かもしれなかった。