穴倉

王様の耳はロバの耳、

ズートピア

映画「ズートピア」を観てきた。周囲の反響がたいへんよかったので鑑賞前からかなり期待していた。そして期待通りとてもよかったので、感想をまとめておく。

このブログを読んでいる方はいないけれど、映画の細部や結末に関する記述もありますということだけ。

 

 

観る前は主人公たち、うさぎのジュディときつねのニックの絆が中心の冒険譚なのかな、と思っていたけれど、鑑賞してみてどうもそういう印象ではなかった。むしろ、背景であるズートピアという場所、社会のありようにこそ、この映画の重心がある。

 

弱い草食動物と強い肉食動物。そしてそのどちらにも更なる序列がある。草食動物の中でも体が小さく弱いうさぎのジュディ。肉食動物ではあるが体は小さく、それゆえずるく生き抜くしかないきつねのニック。映画の中で繰り返し描かれるのは、動物社会の中でのこの二人の位置づけだ。

ジュディはうさぎであるために周囲から見くびられ、努力が認めてもらえない。自分の努力は自分が一番知っているというけれど、他人に認めてもらわないとたどり着けないところはたくさんある。

ニックは自分のやり方でたくましく生きぬいているが、この社会においてきつねはずるく信用できない動物として差別されている。

弱いものは弱いから、強いものは強いから、社会からはみ出てしまう。ありとあらゆる差異が、絶対的に埋めがたい溝として横たわる。

非常に印象深かったのは、肉食動物を恐れる草食動物たちが団結して肉食動物を迫害しはじめるシーンだ。あのシーンの草食動物たちは、圧倒的に数の多い自分たちがあくまで「弱者」だと信じ、他者への「脅威」になる可能性について非常に鈍感であったように思う。現実には、絶対的な強者も弱者も存在しない。「弱者である」という盾に、いや、刃に、脅かされている「強者」が今、かなりの数いるはずだ。

映画の中において、こうしたズートピア社会の問題が根本的に解決されることはない。社会の問題を解決するのにかかる時間に対して、動物(ヒト)の一生は短すぎる。だからこそ「ズートピア」はこの社会で、どう生きるか、何を信じるかというところを描いているのだろう。

 

映画の冒頭からジュディが繰り返す言葉がある。

「世界をよりよくしたい」

これはジュディの信念だが、同時にディズニー・スタジオの目指すところでもあるはずだ。「エンターテイメントを通して、世界をよりよくする」、この理念は特に昨今のディズニー映画には強く流れているように思う。端的に言えば「善」の映画作りをしているわけだ。

しかしだからこそ難しい。というのは「善」の側に立ちますとはっきり表明したディズニーが悪役をつくれば、そのキャラクターは完全に悪になってしまう。過去のディズニー映画をみてみると、マレフィセント・ジャファー・クルエラ… 力を持ち、無慈悲な顔をしたキャラクターたちが一切の情けなく主人公を追い詰め、結果的に懲悪される。悪に認定されたものたちは、この先幸せになることは許されないのだろうか。

それに対し、昨今のディズニー映画はわかりやすい善と悪の二項対立を破ろうと奮闘しているように見える。たとえば、アニメーションなのに映画が終わった後に「メイキング映像」を流し、悪役も主人公もみんなで輪になって笑わせる。あるいは、悪役を悪役たらしめた悲しい過去を丁寧に描き、観客の共感を誘う。「ズートピア」に関しては、最後の大団円であるガゼルのコンサートに、黒幕のベルウェザー市長を刑務所の中で参加させる。

つまりディズニーはこう言っているのだと思う。

「許す」

この映画の主題歌 "Try everything" がやり直しを歌っていることも、その姿勢をうかがわせる。他者の失敗を受け入れ、自分から見て悪いやつでも許す。そうすることで自分自身も自分らしさを肯定して生きていける。なぜなら、失敗しない人間はいないから。一人ひとり考えていることは違うから。

 

この映画は多様性に富んだ動物たちの共生社会を描き、共生って難しいよね、でも実現できたらすばらしいことだ、と語っている。

そう、共生はむずかしい。私にはすべての人間が上手に共生する社会なんて想像もつかない。

でも共存くらいならできるんじゃないかな。こんなにまっすぐに「違いを認め合う社会」の尊さを映画にできる人たちがいる。そしてその映画が多くの人に届いている世の中がある。世界はこれからまだよくなるんじゃないか、そんな希望を抱かせてくれる映画だった。